5meodmt’s blog

精神の分子と化学とメンヘラ

なぜ我々はうんちに惹かれるのか

我々は「うんち」というものに古くから多大な興味をかき立てられるようです。

どうやら「うんち」というものは忌むべきもの、無用なものとして人間社会においては共通の認識があるようです、我々が誕生した時を考えてみると、しばしば親は幼児の糞便の質やその回数に興味を持ち、小学中学へ上がると「うんち」という言葉で大笑いし、ある程度成熟すると今日は快便かまたはそうでないか、便秘気味かどうか、また老いると自分の健康指標として毎日の糞便に日々の大半の関心を抱くようになります。

 

また、我々が今この瞬間「うんち」が貯まり、どうしても排泄しなければならなくなった時を想像してみてください。

おそらくほぼ100%の人が数分以内に排泄をする事の出来る場所を見つけることが出来ます。(私は最近我慢が出来ず駐車場の車の陰で下痢便をかましたことがありますが)

 

これほどまでに考慮されていて禁忌されるべき不浄の存在であるというのは無理があると言わざるを得ません。

事実、我々が使うスマートフォンの絵文字やLINE等のSNSでのスタンプにおいて、「うんち」がかわいらしいイラストで描かれ、送り会う前提で配信され、実際に老若男女問わずやりとりされているようです。

 

1・秘められた存在としての「うんち」

 私たちがお気に入りの人とする話を思い浮かべてみてください。

秘密を打ち明けられる事が出来るくらいお気に入りの人には、私たちはよく「二人だけの秘密」としてお互いの秘密を言い合うことがあります。お互いの秘密を言い合うことによって、その秘密を媒介としてお互いに「相手は私を信頼してくれている」という関係を簡単に構築することができ、お互いの仲を一気に縮める事が出来ます。

これは「秘密」というものが、社会の「表」において不特定多数の人に言うべきものではないという性質があるためです。

 

ここで、「うんち」の話をする人たちのことを考えてみてください。

「うんち」をする場所はたとえ家族でも、男でも女でもやはり個室です。「うんち」は誰もが誰にも見られず一人でするものなのです。

ある人のうんちが硬いか柔らかいかなど、本人の申告でしか分からないのです。

これはさっきの「秘密」の構図を同じではないでしょうか。

つまり、「うんち」の話をし合う人々は、「うんち」を媒介として信頼関係を築いている可能性が大いにあると言えます。

ちょっと気になるあの人と「うんち」の話をしてみてはどうでしょう。

嫌われても責任は持ちませんが…

 

2・敵としての「うんち」

先ほど話したとおり、「うんち」とは禁忌されるべき不浄の存在であるようです。

つまり、人間社会においては皆が嫌うべき存在であると言うことです。

 

私たちの社会には、いじめというものが存在します。

いじめは、有る特定の人を共通の敵として、皆で団結し合って攻撃するという構図になります。

私たちの社会は、皆が平和に見えても幾分かのストレスを抱えてしまうことは当たり前のことでしょう。

そのようなストレスを発散するために、いくら平和な社会といえど、何らかの敵が必要になります。そのため私たちは少数の敵を作りそれを攻撃し、社会全体のストレスの解消先とするわけです。ストレスの解消先を見つけた社会内は、このことによって団結性がさらに増すことになります。

さて、このようなことを考慮したのち「うんち」が置かれた状況に目を向けてみましょう。「皆が嫌うべきもの」であるならばこれは皆の攻撃対象となるのは必然のことでしょう。

つまり、我々が「うんち」の不清潔さ、臭さなどに言及するとき、我々は「人類共通の敵」を攻撃するわけですから、それがたとえ初対面や仲の悪い人であろうと団結性を増すことが出来る非常に便利なツールとなり得るのです。

 

 

いかがでしょうか、私たちが日常使っている「うんち」ですが、コミュニケーションツールとして非常に有効であることを理解していただけたでしょうか。

おそらく私たちは、無意識のうちに「うんち」をコミュニケーションツールとして使ってしまっているはずです。

私達が「うんち」に惹かれるのは、人とのコミュニケーションを知らず知らずのうちに渇望しているからなのかもしれませんね。

皆さんも、日々使う「うんち」にもっと目を向けてみてはいかがでしょうか。

皆さんは日々どのように「うんち」を使いますか?